学生時代、AとBという二人の友人と仲良くしていました。
AとBは同じ牛丼屋で長いことバイトをしていました。
度々三人で酒を飲みに行ったんですが、毎度その二人がバイトの話で盛り上がって、私は話に入れず、ただただ二人の話を聞きながら一人で寂しく酒を飲む、なんてことが多々ありました。
仲良しとはいえ、
「わかんねーよ、俺にもわかる話にしてくれよ!」
なんてグイグイいけるタイプではないので、何度も寂しい思いをしたことをよく覚えております。
それから10余年…。
久々にAと酒を飲むことになりました。
Bは遠い実家に帰ってしまっているので今回は来られません。
では共通の友人Cも呼ぼう、という事になりました。
Cは現在、私と同じ職場で働いております。
Aと会うのは数年ぶり。
タイムリーな共通の話題などほぼ無い。
一方、私とCは一緒に仕事をしている仲。
いくらでも職場の話で盛り上がれます。
学生時代の事を思い出し、これは立場は変われどあの時と同じ状況だ、と思いました。
私とCが仕事の話で盛り上がり、Aに疎外感を与えてしまわないようにしよう、と大人な私は決意しました。
いざ三人が集合し、飲み会が始まりました。
互いの近況などから始まり、他愛もない雑談をする中で、AとCが、スマホゲームのディズニーツムツムというのをやっている事が発覚。
しかも以前からゲームの中で繋がっていて、ハートを送り合っている仲だというではないか!
私はそのディズニーなんちゃらをやっていません。
私が知らないそのゲームの話で盛り上がるAとC。
二人のよくわからない話を聞きながら、一人黙々と酒を飲む私。
この沈黙は対話じゃねぇ!って思いました。
→前回記事参照 「沈黙も対話なり」
結局10数年前のあの時と同じ状況になってしまったのです。
帰って妻にこの事を話したら、一旦笑った後に真顔になって
「宿業だよ」
と一言。
「ここで断ち切らないと、この先も変わらないよ」
だって。
すげぇなコイツ!と思いました。
この件に関して、別にそこまで悩んでいたわけでも無く、笑い話として話しただけだったが、言われてみれば確かにそうかも。
どんな些細な事も仏法の観点から見て、解決するために自分を変える、というのは非常に重要な事だと思いました。
今後飲みの場でこういう状況になったら、胸中題目あげながら無理矢理話に割り込んでやろうと思います!!(笑)